災害ボランティアの嚆矢 東京帝国大学「学生救護団」
阪神・淡路大震災は“ボランティア元年”とされる。関東大震災にその“嚆矢”を見る
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●9月1日「防災の日」―関東大震災100年の原点に返る
近代から現代へ、あらゆる防災の「嚆矢(こうし:事始め)」がここに
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本年は、1923(大正12)年に発生した関東大震災から100年の「周年」となる。関東大震災は、その発災日である9月1日が「防災の日」と定められているように、近代日本における災害対策の出発点となった大災害だった。この災害では、大火災による東京での人的被害が大きかったいっぽうで、震源域の相模湾に近い神奈川県を中心に、強震、津波、土砂崩れ、火災、液状化などによる被害が各地に及んだ複雑な災害でもあった。
いっぽう、災害救護・被災者支援にあたっては、現代でいう「災害ボランティア」とも言うべき住民同士の助け合いや、海外を含む被災地外からの救援・支援が復旧・復興、被災者の生活再建に大きな役割を果たしたことは、あまり知られていない。
本紙は2010年9月1日の創刊にあたり、「防災士」を読者として想定した。防災士は“自助・協働”の理念のもと、被災者(地)支援活動が重要なテーマでもある。関東大震災100年、本紙創刊13年、そして防災士誕生から20年を迎えるいま、関東大震災における被災者支援の状況は、防災士にとっても大きな関心事となる。
そこで本号では、WEB防災情報新聞掲載の山田征男氏(防災情報新聞 特別編集委員)執筆・とりまとめによる「周年災害」より、「関東大震災100年 特集/『周年災害』がひも解く大震災と防災」から、災害ボランティア組織『学生救護団』結成の経緯・背景を引用・転載してみる。
WEB防災情報新聞:関東大震災100年 特集/「周年災害」がひも解く大震災と防災

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●山田征男・執筆とりまとめ:「関東大震災100年:震災後の防災」より
災害ボランティア組織「 学生救護団」の結成
関東大震災直後、東京帝国大学で「学生救護団」が結成され、その活動を継承する東京帝大セツルメントが誕生
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●1923年(大正12年)9月3日 大学構内3000人避難者を支援
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1995年1月17日発災の阪神・淡路大震災後の救護・復興支援活動に、全国各地から延べ180万人(1997年12月末までの推定、内閣府)といわれる“災害ボランティア”が被災地を訪れ献身的な活動を行い、被災の年1995(平成7)年は“ボランティア元年”と呼ばれたが、その嚆矢(こうし)とも言うべき災害ボランティアの組織的な最初の活動は、関東大震災直後の9月3日、末広厳太郎東京帝国大学(現・東京大学)法学部教授が、学生を中心に組織した「学生救護団」だという。

当時の帝国大学新聞が9月30日付号外で次のように報じている――「九月一日東大が火を発するや、母校の急を救はんとして大学に集まり、その儘(まま)警備に当たったる学生等と、たまたま二日に南洋から帰来した四十名の学生団(当時日本の委任統治下におかれた南洋群島見学団)とが中心になり在京学生を糾合して、帝大救護団を組織し、本部を巡視詰所におき、先ず大学の警戒をすると共に、大学構内に避難せる三千の罹(被)災者の衣食住の世話に当り、食糧被服の配給に、衛生設備の完成に、驚くべき成績を挙げた」。
ここに記録されたとおり、学生救護団の活動は、東京本郷の同大学構内に避難してきた人たちへの世話からスタート、9月10日には上野支部を開設し上野公園での救護活動へと進んだ。その時、警視庁上野署長に交渉して「今後公園内避難民に対する慰問品分配は学生の手を経ることとし」と、支援の食糧や物資の無秩序な配布やかたより、漏れが起きないようにした。それだけでなく、学生が避難民に提案し地区ごとに組織した委員会制度による「上野自治団」が、学生救護団上野支部解散後も、その活動を引き継ぎ成果を上げたという。

次いで行ったのが“安否調査活動”で、全国各地から殺到する被災者安否確認の問い合わせに対し、東京市の市政調査会と協力して、一つ一つ市内の避難所に足を運び、東京全市にわたる「避難者名簿」を作成、約3万5000通の返信をしている。なお9月11日には穂積重遠法学部教授を中心に「東京罹災者情報局」を設立している。
これらの活動は1カ月以上続き、10月半ばには終了したので解散会を開いたが、その時、このような経験を積んだ学生の活動組織を解散するのは忍びないとして、さらに進んで継続性のある活動を行う組織へと、発展的に解散しようとする気運が生まれたという。そして、末広教授のもと文学部社会学科の学生が中心となり、救護団解散後、直ちに調査準備に取りかかり、日常的に支援活動を展開する“セツルメント活動”組織結成へと展開していった。

このセツルメント活動の発祥は、19世紀後半のイギリスと言われる。当時、産業革命により企業に投資したり直接経営を行う資本家など富裕層と、企業に雇用され低賃金で働く労働者層という二極化された階層社会が急激に進んだ。労働者のほとんどは農村から都会へ流れ込んできた人たちで、ロンドンなど大都会の下町の不衛生な環境のなかで、いわゆる貧民街を形成していた。その課程で労働者自身により、生活環境の改善や教育および医療を受ける権利獲得をめざす社会運動が起こった。
いっぽう、J.スチャートやA.トインビーなどの知識人がこれらの状況に刺激され、文盲の多い貧民街の中で教育活動を進めたり、不衛生な環境のため病人が多い地域で医療活動を行ったり、労働者を組織して消費組合(現・生活協同組合)を結成し、その活動を援助したりした。その特徴は、貧民街にトインビーホール会館などの拠点をつくり、定着または定住して活動することであり、そこからこれらの活動がsettlemen(t セツルメント)と呼ばれた。
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●学生救護団から「東京帝大セツルメント」へ
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わが国におけるセツルメント活動は、1891(明治24)年アメリカ人宣教師アダムス女史が岡山市花畑地区で開いたのが最初で、1910(明治43)年以降は「岡山博愛会」の名称で、現在に至るまで活動が続いている。また日本人の手によるものとしては、1897(同30)年3月、当時はキリスト教的社会主義運動家だった片山潜が、トインビーホールを見学して感銘を受け、東京神田三崎町に同じ思想の先達者キングスレーの名前をつけた会館を建て活動をはじめたのが最初といわれる。

学生救護団解散8カ月後の翌1924(大正13)年6月10日結成された「東京帝大セツルメント」の活動資金は、前身の「学生救護団」がその活動の一つとして“帝都大震災火災系統図”の調査作成を行い、その原稿を東京日々と大阪毎日の両新聞社へ売却し、謝礼として受け取った7000円をそれに当てたという。同セツルメントは人材的な面だけではなく、資金的にも救護団の活動を継続していた。
この日、東京帝大セツルメントは、下町の労働者街だった東京本所区柳島元町(現・墨田区横川四丁目11番9号あたり)の地に“ハウス”を開館し、末広教授は次のような設立趣意書を発表した。
「知識と労働が全く別れ別れになって了ったことは現代社会の最も悲しむべき欠点である」とまず述べ、「明治このかた、教育施設が完備したと云い文化が大進歩を遂げたと云う。けれども斯くの如き教育を受け文化を享楽し得るものは全国民中の富有なる一少部分のもののみに限るのであって」と指摘、労働者、一般庶民は「小学校教育以上のものを受けることが出来ない」とし、それ故、学生は「親しく社会の実相を直視し其の人と生活とを知ることでなければならぬ。斯くする事によってのみ真の学問は活きるであろう」と説いた。

そして「大学セツルメントは我々学徒自らの地位と能力とに鑑み現在わが国に於ける、如上の短所を補正することを以て、其の最小限度の任務とすべきものである。
即その一つは知識の分与であって其中には自ら社会教育と人事相談と医療が含まれねばならぬ」と活動内容を明確にし「又其二は、社会事業の実地調査であって、我々の定住と右知識の分与の仕事は、自ら此の調査に向かって多大の便宜を与える事になるのである」とした。
ここに東京帝大セツルメントは、みずから建設したハウスに定住して、託児部、児童部、市民教育部、図書部、調査部、法律相談部、医療部、総務部の各部を置き、それぞれの活動を展開した。
その後同セツルメントは、対中国戦争(1937年:昭和12年7月〜1945年:昭和20年8月)が泥沼化した1938(同13)年、解散させられた。
しかし、その伝統は現在の社会福祉、介護、保育、防災、災害時支援、法律相談、医療などのボランティア活動に引き継がれ、1995(平成7)年1月の阪神・淡路大震災を契機として、同年が「ボランティア元年」として全国的に花開くことになる。
(山田征男・註:東京帝大セツルメント誕生をその原点となった学生救護団結成に置き、組織化された災害ボランティア誕生の記事として改訂)

